人の不安はどこまで駆り立ててよいのか。
先日、駅のトイレで所々あかぎれして血がにじむ手指に石鹸の泡を付けてずっと洗い続けている少年がいました。目は指先を凝視して手以外は微動だにせず佇んでいました。かわいそうに強迫観念に追い込まれているのでしょう。
現在の日本は人の不安やコンプレックスを助長してビジネス化することが激しく流行しています。コロナ禍でさらに拍車が掛かったように思います。人はどこまで不安やコンプレックスを駆り立ててよいものなのでしょうか。
身の回りのあらゆるものを殺菌した方がよいように心理的に追い込まれていないでしょうか。空間から机の上からソファーからカーテンから体の表面や口腔内の常在菌まで常々殺菌しないとヤバいというように思い込まされていないでしょうか。
人は頭髪が薄くなってはいけないのでしょうか。円形脱毛症で悩んでいる方とかもともと無毛症のような方も居るわけですが。顔の皺やシミは隠したり消したりしないといけないというような情報も感度の高い人々を強迫観念に駆り立てているのではないでしょうか。一重の人はアジアンビューティーだと思うのですが、二重にしないといけないのでしょうか。サプリを飲まないといけないんじゃないかという風に追い込まれている方々も非常に多いように思います。年齢がいったらサプリを飲むというのがもう常識のようです。疲れたらしっかり休むよりビタミン剤やエナジードリンクを飲んだ方がよいような錯覚を覚えさせられる映像が氾濫しています。ビタミン剤というのは目から肩凝りや腰痛や膝痛から不眠から疲労までなんでもかんでも効果のある万能薬なのでしょうか。年齢的な運動機能の低下を防止するためにサプリを飲まないといけないのでしょうか。
昨今は多様性という言葉がよく使われていますが、本当に多様性というものが身についているのであれば、人の外見などを修正しないといけないような情報を流すことにはかなり気を遣うことでしょう。多様性ということを考えた時、ありのままを受け入れるということが根底にないといけないはずです。見た目を変えないといけないような社会の雰囲気は多様性の尊重と逆行するのではないかと思います。現在のメディアは多様性という言葉を建前で使っているのだなと。
不安を助長して商品を販売したりサービスを提供するというビジネスモデルは成功しやすく昔から続いているのでしょうが、どこまでが許容されるのでしょうか。昨今の宗教問題と照らして考えると、殺菌教、サプリ教、コンプレックス助長教といったところが隆盛を極めて多くの信者を獲得していますが一度入信してしまうと盲目的になってしまうようです。
そう考えると医療や介護もどうなのだろうかと自問します。人の不安を助長して治療を促すビジネススタイルになっていないでしょうか。90歳の人に、脳梗塞や心筋梗塞にならないようにと薬を飲み続けさせることがどこまで妥当なのか。整形外科としては骨粗鬆症で骨折すると寝たきりになったり予後もよくないですよと言うことがどこまで許容範囲でどこから不安を煽ることになるのか。人は老衰してくると運動機能も認知機能も自然に低下していくものですが、自然の推移に委ねるということがいけないことなのか。
何事にもいい塩梅というのがあるはずです。治療継続率が高いということは患者さん側からすると押しつけに近いということになるかもしれません。専門医の役割は攻略戦、つまり最期まで治療を継続させること、プライマリケア医の役割は撤退戦、つまり不安を抱かせずに年齢等により治療を漸減することなのかもしれません。それでもプライマリケア医は若い頃の初診時からできれば人生の最期まで寄り添いたいところなので、不安を煽り将来の重病を予防し、不安を和らげ老いを受け入れるというような世代的な対応の変化も必要なのかもしれません。
« もし医師の立場だったらゾコーバやレカネシブを処方しますか? | トップページ | 膝はすり減ったのみでは痛くない。 »
« もし医師の立場だったらゾコーバやレカネシブを処方しますか? | トップページ | 膝はすり減ったのみでは痛くない。 »
コメント